日記というものによくよく憧れて育った。 まず、日記を書くという行為がよい。
文章を書くということは私の中で尊敬する行いの上位に区分され、それは文章の内容が高尚であるか面白いか否かなど二の次であり全て素晴らしい。それを日々行うのだから全く素晴らしい。
また、読み直すという行為もよい。日々あっという間に過ごす中でも楽しかったことや許しがたいことなど思い起こす時間にはじっくりとした味わいがある。
しかし、いざ自分が書こうとするとどうだろうか。気付けば何も書いてないページが一月、二月と過ぎていき終いには年末に「ああそういえばあったなあ、しかし何も書いてなくてただの恥と無精の記録だ」とゴミに出す始末。そんな挫折を毎年手を変え品を変え繰り返している。
思うに、私はアナログを愛しているがアナログは私を愛していないのだ。落ち着いた時間を用意し、丁寧にノートに綴り、積み重ねていくそのいずれもが生活にも性にも合っていない。私に合うのは日記なんて上等なものでなく、隙間時間にスマホでパパッと走り書きをする、情緒も味わいもない切れっぱしなのだ。
諦めきれない私はブログならどうだろうかと考えた。いやしかし、ブログは結局日記と必要な物は同じであるとすぐ却下した。デジタルだろうとアナログだろうと、私はその時目にした物に書き殴るようにしか出来ていない。ブログ、と決めてはならない。ブログもある、くらいがちょうどいい。今書いているこれも、多分ネットにあるどっかの何かに保存される。縁があれば読み返し、気になれば関連する何かを探したり引っ張り出してみる。それくらいきちんとしてない方がちょうどいいのだ、悲しいことに。
書き残すことにつくづく向いてないなあと思う。それでも日々何かしらに笑って、考えて、調べて、生きているのだから残しておかないと勿体ない。取り敢えずこれを考えた切っ掛けである「認知症の婆様が、自分は子犬から人間になったと主張するようになった件」はキーワードだけでもここに書き残すとした。
……と、Simplenoteというアプリに書いてみた。このアプリはなかなかどうして便利なやつで、公開を選ぶとWebページのリンクが作れるらしい。パスワードをかけはできないが、ちょっと長い文を読ませるだけならこれはいい手な気がする。一覧やバックナンバーを出したければそれこそ後日ブログにも置けばいい。
色んなメモアプリを使ってきたが、書いたものがそのままお出しできて、オフライン使用可で、複数デバイス同期可能で、割と長生きしそうな提供元(Wordpressを運営しているAutomattic社)と、取り敢えず書くにはいい物である。たまにカーソルが不思議な挙動をするのでその辺に慣れるのが先か投げるのが先かという不安はあるのだが。
投げるといえば、何故高齢者というものは入れ歯を投擲武器として扱うのだろうか。割れでもしたら食べるのに苦労するのは自分だというのに。
日記について考える。
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